花火の歴史

花火の歴史

中国で発明され「狼煙(のろし)」として使われた黒色火薬が花火の祖先である。鑑賞用の花火は、14世紀後半イタリアのフィレンツェにはじまる。 一説には火を吐く人形のようなものだったらしいが、その後ヨーロッパ中に広がり大航海時代と共に世界中に伝わった。日本への火薬の伝来は1543(天文12)年の種子島だが、1613(慶長18)年イギリス国王の使者ジョンセリスが、駿府城の徳川家康を尋ねたとき持参の花火を見せたという記録が残っているというのが一般にいわれてきた。さらに最近になって、その数十年前に伊達政宗公が見たという古文書も見つかっている。当時の花火は筒から火の粉が吹き出すもので、現在のような打ち揚げ花火の登場は19世紀になってからである。

両国の川開き(隅田川花火大会)

1733(享保18)年、前年の大飢饉とコレラの大流行による死者の霊をなだめ、悪霊退散祈願のため8代将軍吉宗は「施餓鬼」を催し大川端で花火を打揚げた。これが世に言う両国の花火である。川開きは納涼期間の始まりの日という意味である。その後中断を挟みながらも続いてきたが、1961(昭和36)年を最後に交通渋滞、建物の密集、川の汚染などを理由に中止が決まった。中止を惜しむファンの声に押されて復活したのは、1978(昭和53)年の事だった。

玉屋・鍵屋

1659(万治2)年、伊賀(三重県)篠原村、弥兵衛という青年が江戸に上り、日本橋横山町に「鍵屋」を興す。葦の管に火薬をつめた花火を作り、大評判となったと伝えられる。幕府による度々の花火禁止例もこのころになると緩み、江戸の豪商達は争って鍵屋に花火を打ち揚げさせた。1808(文化5)年ごろ鍵屋に清七という腕の良い番頭がおり、代々弥兵衛を名乗る鍵屋から暖簾をわけてもらい、両国吉川町に分家「玉屋」を興し、玉屋市弥兵衛を名乗った。以降、大川橋の川開きは「鍵屋」「玉屋」時代を迎える。ところが、1843(天保14)年、玉屋は火災をおこし江戸所払いとなる。このように玉屋は一代かぎりで断絶してしまった。